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とうとう筆折れたかと巷で噂の夏風馨です。
こんにちは。
誰も噂はしてないけれど、最も自分で噂しておりました。

そんな訳で久々にして、滅多にしない映画の感想をば。
映画を映画館で観たのさえ久し振りでしたからね(何故かここ1週間ほどよく観ている)。
先日、指導医より強く勧められて『エンディングノート』を観てまいりました。

そんな訳で、感想をば。
長くなりますし、あくまでメモのようなものですので。


率直な感想を、と言われれば「死を前にした患者さんが望む逝き方をできるように自分はどこまで手助けできるのだろうか」と言う医師としての感想と「親が死ぬ時が来たら、自分や他の家族はこんな風に受け入れてあげられるだろうか」と言う一人娘としての感想があったりする訳です。
死を前にしたとき、それを受容するには
・否認: 自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階。
・怒り: なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。
・取引: 何とか死なずにすむように取引をと試みる段階。何かに縋ろうという心理状態。
・抑うつ:なにもできなくなる段階である。
・受容:最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である
……と、5段階を踏むと言われています(エリザベス・キューブラー=ロス)。
勿論、一般論ですべてに当てはまる訳ではないのですが、彼の癌告知から死までは約7ヶ月ほどで彼が自分のやるべきことを彼の言葉を借りるところの段取りよく(御本人ならば段取り通りではないと言うかもしれませんが)こなし、その過程で家族も彼の死を受け入れていく様がとても感銘を受けた訳です。
私の周囲にも悪性腫瘍の末期の患者さんは何名かいらっしゃいます。実際この映画を観た日も一人末期癌の方が他界されていました。
緩和ケア、終末期医療、と呼ばれるものはそう簡単ではないのだと現場にいると本当に痛感します。死というものがひたひたと近付いてくる彼らにどう接するべきか、自分に何ができて何ができないのか。少しでも辛くないよう苦しくないよう、そしてやりたいことをできるだけやれるように手助けすること。難しいと日々感じています。
本人がやりたいと思っても、家族にその力がない場合や、家族そのものがおらず本人の独力
では如何ともし難い場合などに直面する日々です。

一人の人間としては、自分は一人娘として両親を見送るときが恐らくは来るであろう立場で、遺される片親のことを考えてしまった訳です。
また、自分が死ぬ時を思って、その時に自分が例えば進行癌で化学療法を一か八かで行ってそれでも進行して、という時にどう身を処すかとか。遺すことになる家族(まだ作ってはないので漠然としているけれど)とどう過ごすかとか。

などなど、取りとめのないことを一気に色々考えてしまいました。
作り物ではない現実がそこにはあり、気付いたら自然と涙が溢れていました。

総括して『エンディングノート』はお勧めの映画でした。



これは感想とは関係ありませんが……
砂田さんの姿にどこか自分の他界した祖父を思い出しました。祖父も曲がりなりにもエンディングノートを遺しており死後の手続き諸々はそれに従って家族が行った覚えがあります。
2003年に他界した祖父は、特発性間質性肺炎のステロイドパルス療法施行中に感染を合併してあっという間に他界しました。その祖父は常日頃「お前(祖母)よりは先には死なない」と言っていましたが、祖母よりも早く逝ってしまいました。
そんな祖父が遺していたノートは周囲の誰も死ぬまで気付かなかったノートでした。
教育者だった祖父がきちんと書いていた日記と併せて置かれていたこのノートは残念ながら途中で終わってはいましたが、必要なことは全て書かれていました。恐らく間質性肺炎が見つかった時、自分が祖母よりも先に逝くことを察したのかもしれません。少なくとも自分の命の終りを感じ取ったのだと思っています。しかし、それが恐らく予定よりも早くきてしまったのだろう、とも私は思っているのです。
どうしても私は死の現場に立つ時には祖父を思い出すので、この映画でも祖父を思い出したのかもしれません。祖父が遺したノートが9年経った今でもあまりにも鮮やかに記憶に残っており、本当は祖父もこんな風に逝きたかっただろうなと最期に改めて思ってしまったので余談まで。
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